ソルボンヌK子のブログ

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大東亜戦争25:噴射推進式飛行機

 昭和19年。零戦は、アメリカの戦闘機F6Fヘルキャットに負けるようになった。改良しなければならない。


 零戦を作った堀越技師は、三菱だ。新作は、烈風と言う。しかし、なぜか、エンジンを、中島製作所のものを使えと命令される。堀越ショック。でも、命令だから仕方がない。


 試作品は思うようにできない。テスト飛行で事故が起きたりする。川西というところでは、紫電改というのを作っている。こっちは完成している。


 三菱は、烈風を作るのを止めて、紫電改を量産しろと言われる。堀越ショック。しかし、なんとか、エンジンを三菱にしていいと言われ、紫電改は作らなくてもいいとなる。


 そのころヨーロッパでは。ジェットエンジンの開発が始まっていた。ドイツと仲が良かった日本は、ドイツからその資料をもらえることになる。


 ドイツにいた日本の中佐が、そのコピーを持って、船で帰るのだが、途中、アメリカの攻撃がある。ドイツからもらった、潜水艦、Uボートで帰るんだけど、もし攻撃されて、アメリカにその資料を盗られるようなことがあったら、その時は資料に錘をつけて沈め、自分は捕虜になる前に自決しなければならない。という任務だ。


 コピーを持って帰る中佐は、二人いて、最初に出発した中佐の乗ったUボートは、やられてしまった。


 二人目の、巌谷中佐は、4月にドイツを出る。3か月。なんとか無事に、シンガポールに着く。そこでUボートを降り(降りというか、上がりというか)、輸送機で東京へ。って、これも、直行便なんてなくて、台湾や九州に降りながら、羽田に着いたのは2日後だった。


 7月19日、羽田着。昭和19年7月と言えば、7日にサイパン玉砕だ。東條総理はその責任を問われ、辞職に追い込まれた。次の総理は、小磯。記憶にないなあ。この人は、沖縄の責任を問われて一年後に辞めてる。


 東條英樹が辞職したのが7月18日。巌谷中佐が無事羽田に着いたのが19日。日本は、九州に、B29が来て空襲してた。零戦では勝てない。ジェットエンジンの飛行機が作れたら、アメリカに逆転できる。さっそく三菱で制作が開始された。


 しかし、堀越さん、烈風にご執心である。ジェットエンジンの戦闘機は、別の人の担当となった。ジェットエンジンとロケットエンジンの戦闘機を作る(どう違うの?)。結局、どっちも終戦前に実用できなかったけど。


 昭和19年、玉砕と開発の年でした。いやまだ盛沢山です。


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